親ガチャという単語の不快感の原因

親ガチャという言葉がある。

この世の不公平さを表した言葉の一つだ。

私自身に関して言えば、愛情を受けて育ち、頭が悪いながらも大学まで行かせてもらった。

 

「これ以上何を望むのか」と個人的には思うが(もっと身長が高ければ等は思うが...)「木村拓哉の娘」の様な存在がいる限り、そういった概念自体を否定するのは難しい様に思う。

 

それに我が子を虐待する様な親だって存在する。世の中は公平にはできていない。そもそも屁理屈的な事を言えば、この世に完全な平等など存在しないのだ。

 

こういった不平等に対する正攻法としては「努力する」が主だと思う。死にものぐるいで勉強して一流大学に入学し、一流の会社に入社すれば、あなたも一部の「恵まれた人」になるわけだ。

 

日本という国において言えば、国民全員に再現性がある正攻法の様に思えなくもない。

 

だけど実際そういった事はなく

・努力できる環境があるのも親ガチャが当たったから

・努力できる才能があるのも産まれつき

・努力でどうにもならない事もある

等色々「努力する」という行為が出来ない人もいる。

 

こういった人達はもう人生を諦めるしかないのだろうか。

私は違うと思う。よく言われる話だが「短所は長所の裏返し」であり、あらゆる分野で「無能な人間」はこの世に存在しない。

 

今の環境、能力を受け入れ、自分が出来る事を探し続けるしかない。

 

「幸せに生きる事」を最終目標とした場合、それを達成するまで、もがき続けるしかないのだ。

 

「多様性」や「自分らしく生きる」というのはこういった事だと思う。

 

ただ「実際に努力出来ない人達」と「努力が出来ない人のフリをしている人達」がいると思う。

 

後者の存在が「親ガチャ」という言葉に不快感を感じる理由だと思う。

 

「努力をしない自分」に罪悪感や嫌気がさし「努力をしない理由」をこじつけるのだ。

 

上手くいかない理由なんていくらでもこじつけられる。その理由を本来一番感謝するべき人の「親」という存在にする事が「親ガチャ」という単語の不快感の原因なのかもしれない。